たのおか旅行ノート

旅行をいろんな切り口で書くブログです。

世界遺産・平泉の歴史観光 なぜ? を知ればもっと楽しく!【前編】3つのキーワード

世界遺産として非常に有名な平泉の地にやってきました。

ところでみなさま、平泉は「どうして世界遺産として認められているのか?」ご存じでしょうか。

「知ってるよ 舐めんな」というお声も聞こえてきそうですが、私自身は平泉がどういう場所なのか、どのような価値があるのかほとんど知らずに当時は観光しておりました。金ぴかのお寺と風流な庭が見られたらいいかな、くらいの認識でした

でも振り返ってみればそれってすごく勿体ないですよね。平泉に限らず寺社仏閣や歴史スポットはその背景を知っていてこそ本当に楽しめるものだと思います。

私の場合は現地に行って初めて「もう少し勉強しておけば良かったなあ」となるのがいつものパターン。

そこで今回の記事【前編】ではこれから平泉に行ってみたいという方に向けて、旅行前に知っておけば観光がもっと楽しめる! というポイントをなるべく簡潔にまとめてみました。

【後半】では予習の内容を踏まえたうえで、平泉の観光スポットをご紹介したいと思います。

それではどうぞご覧ください!

※内容はなるべく間違いが無いよう頑張りますが、歴史は割と苦手のため至らない点もあるかと思います。ご容赦ください。

※2019年3月に行った"北海道&東日本パスで行く東北鉄道旅行"2日目③【前編】の記事になります。 

平泉の歴史を知るための3つのキーワード

平泉の歴史をなるべく大枠で掴んでいただきたいということで、ポイントを3つのキーワードに絞ってみました。これらを知っておけばなんとか押さえられる気がします!

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平泉駅 フォントが金色

 

キーワード1 前九年・後三年の役

まず1つ目ののキーワードは前九年・後三年の役(ぜんくねん・ごさんねんのえき)、平安時代に東北地方で起こった戦いです。

 

前九年の役とは?

当時、奥六郡(=現在の岩手県)という地域では安倍氏という一族が強大な力を持っており、朝廷の言うことを聞かず、独立国家のような様相を呈していました。

そんな中、朝廷サイドと安倍氏の間で起こった戦いが前九年の役です。始まったのは1051年。本当はもっと込み入ったお話なのですが、ここはばっさりと割愛させていただきます。

長年に渡り、何度か戦いが起こりました。途中、藤原経清(ふじわらのつねきよ)という人物が安倍氏側へ寝返り、有力武将として朝廷サイドを苦しめるなど紆余曲折ありました。

しかし最終的に勝利したのは朝廷サイドの源頼義(みなもとのよりよし)でした。出羽国(でわのくに=現在の秋田県)で力を持っていた清原氏の援軍を取り付けたことが決め手となり、安倍氏は滅亡。

これが前九年の役の結末となります。

 <参考サイト:もっと詳しく知りたい方はこちら!>

manareki.com

 

後三年の役とは?

前九年の役が終結した後、朝廷サイドの救世主として活躍した清原氏が出羽国および奥六郡を広く支配するようになりました。清原氏は朝廷に対し反抗的だった安倍氏とは異なり、良好な関係を築いていました。

そんな中起こった後三年の役清原氏の内紛いわば家族喧嘩です。始まったのは1083年。

対立したのは清原真衡(さねひら)、家衡(いえひら)、清衡(きよひら)。とても複雑なのでここもざっくりと割愛し結末だけ述べますと、最終的には清衡とこの内乱に乗じて参戦した源義家(よしいえ=頼義の長男)のチームが勝利を収めました。

これにて後三年の役の終結です。

 <参考サイト:もっと詳しく知りたい方はこちら!>

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キーワード2 奥州藤原氏

後三年の役は後に東北で大きな富と権力を築いた奥州藤原氏登場のきっかけとなりました。

後三年の役で勝利した清原清衡。実は前九年の役で源頼義から安倍氏側に寝返った藤原経清の息子です。経清の死後、清原氏の養子となったため清原の姓を名乗っていたのです。

後三年の役が終わり清原氏は滅亡。清衡は養子としての立場も不要なり、藤原清衡と名乗るようになりました。この人が奥州藤原氏の始祖となる人物です!

清衡以降、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)の4代(肝冷やす、と覚えよう!)に渡り栄華を誇りました。(泰衡はそうでもない?)

奥州藤原氏は朝廷に反抗的な態度を取らず、東北地方で豊かに産出する砂金や良馬などを貢ぐなど、柔軟な外交を行いました。そのため朝廷は奥州藤原氏の東北支配を黙認。結果として、奥州は独立国家のようになり、平安京とは地理的に離れていることもあって、独自の文化が花開くことになりました

奥州藤原氏は泰衡の代、源頼朝との奥州合戦にて滅ぼされ、その栄華に終止符を打ちます。泰衡は敗走する際に火を放ったため、平泉は焼け野原になりました。

 <参考サイト:もっと詳しく知りたい方はこちら!>

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キーワード3 浄土信仰

キーワード3つ目の浄土信仰は平安時代後期に生まれた思想です。

この時代、末法(まっぽう)という思想が人々の間に広がりつつありました。これは仏教の開祖であるブッダの教えが、ブッダの死後、時間が経つにしたがい改変され、人々に正しく伝わらなくなるというものです。当時は1052年に末法が訪れると考えられていました。

仏教徒にとって末法の世の襲来は絶望の世の襲来と同義でした。ブッダの教えが届かなくては悟りを開くこともブッダの加護にあやかることもできません。そうすると永遠に現世から逃れられず、苦しみ続けなくてはならないことを意味したからです。

一方でこの時代は戦いや争いの絶えない時代でもありました。先に説明した前九年・後三年の役もその例です。そんなわけで不安をあおる要素が数多ありました。

ブッダの教えに頼れないとなると、次に人々が期待したのは阿弥陀如来の力です。とても偉い仏さま(ざっくり)である阿弥陀如来の力にあやかり(=他力本願)、苦しみから逃れようとしました。

こうして阿弥陀如来を最高の仏と考え阿弥陀如来のおわす浄土に往生することを目指す浄土信仰が生まれました。

 <参考サイト:もっと詳しく知りたい方はこちら!>

manareki.com

 

平泉の歴史を押さえるために:これだけは押さえよう

長くなってしまったので、さらに要点だけ知りたいという方のためにシンプルにまとめます!

 

前九年・後三年の役

平安時代に東北で起こった戦い。長く続いたため多くの死者が出た。後三年の役では藤原清衡が勝利し、奥州藤原氏登場のきっかけとなった。

 

奥州藤原氏

前九年・後三年の役の後、独立国家のように東北を支配し栄華を極めた。そのため本拠地である平泉には独自の文化が花開いた。藤原清衡が始祖。

 

浄土信仰

末法や戦乱の不安な世の中にあって生まれた思想。阿弥陀如来を最高の仏と位置づけ、阿弥陀如来のいる極楽浄土を信仰し、苦しみから逃れようとした。

 

ここまでポイントを整理してみました。 いかがだったでしょうか? この記事が読者の皆様のお役に立つことを願っております。

今回はここまで。次回、【後編】は観光編です。お楽しみに!

<前回記事:"2019年 北海道&東日本パスで行く東北鉄道旅行"2日目②>

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<次回記事:"北海道&東日本パスで行く東北鉄道旅行"2日目③【後編】>

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